|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana) ・ 包囲 : [ほうい] 1. (n,vs) siege 2. encirclement 3. envelopment ・ 戦 : [いくさ] 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight ・ 年 : [ねん, とし] 1. (n-adv,n) year 2. age
ベオグラード包囲戦(Siege of Belgrade)は、墺土戦争における戦闘の1つで、1717年7月16日から8月17日まで現在のセルビアの首都ベオグラードにおいてハプスブルク君主国(オーストリア大公国)軍とオスマン帝国軍との間で行われた包囲戦。外側でもオーストリアの包囲軍とオスマン帝国の救援軍が衝突、激戦となった。 == 経過 == === ベオグラード包囲 === 1716年のペーターヴァルダインの戦いでプリンツ・オイゲン率いるオーストリア軍は大勝利を飾り、前線基地ペーターヴァルダインの救援を果たしたが、主目的であるベオグラードはドナウ川とサヴァ川の合流地点にあり、両川に挟まれた都市で東と北はドナウ川、西はサヴァ川に阻まれているため、軍船が不足していたオーストリア軍はこの時点では包囲出来ず、代わりに北上してトランシルヴァニアへ進軍、バナトとティミショアラを制圧してドナウ川北岸を平定、一旦オーストリアへ帰国した。 帰国したオイゲンは艦隊建造に着手、ガレー船10隻を中心とする艦隊が完成、バイエルン選帝侯マクシミリアン2世を始めとする神聖ローマ帝国諸侯から派遣された援軍を加えて軍隊増強に努めた。但し、ロシアのツァーリ・ピョートル1世からの参戦要請は彼がバルカン半島に影響を及ぼす恐れから断っている。 5月14日にオイゲンはオーストリア軍10万人を率いてウィーンを出発、21日にセルビアのフトグに到着すると、兵隊をドナウ川に浮かべた艦隊に乗せてベオグラードへ向けて出航、6月15日にベオグラード北東のパンチェヴォに到着すると沿岸のオスマン帝国軍を船からの砲撃と陸軍の上陸で追い出し、ベオグラード南方を陣地として包囲に取り掛かった。補給対策として東・北のドナウ川と西のサヴァ川に船橋を架けてティミショアラとペーターヴァルダインの連絡路を確保、同時にベオグラードの籠城軍を外部から遮断した。 ベオグラードは陸海双方からの砲撃を浴びたが、守備隊長のムスタファ・パシャは3万の兵で必死に持ちこたえ、本国からの救援を待っていた。オスマン帝国からは大宰相ハジ・ハリル・パシャが15万の大軍を連れてベオグラードの救援に向かい、7月28日にベオグラードに到着すると南の丘と東の高台に布陣、それぞれの場所から砲台を設置して包囲軍への砲撃を開始した。オーストリア軍は2方向からの砲撃にさらされ、赤痢の流行で被害が増加して7万に減少、8月15日に軍議を開いたオイゲンは一か八かの決戦を仕掛けることを発表、1万をベオグラードの監視と包囲の継続に置き、残りの6万を率いて夜の内に救援軍の陣地へ進軍していった〔久保田、P226 - P227、マッケイ、P212 - P216。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ベオグラード包囲戦 (1717年)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|